1963年(昭和38年)に東映で製作された工藤栄一監督の同名時代劇を、三池隆監督がリメイクした時代劇アクション映画。池上金男(池宮彰一郎)の脚本を新たに脚色したのは、『オーディション』(原作:村上龍)や『インプリント 〜ぼっけえ、きょうてえ〜』(原作:岩井志麻子)で三池監督とコンビを組んだ天願大介。原作は東映時代劇末期に何本か作られた集団抗争時代劇路線の中でも大傑作との評価が高い作品だが、全体としては単なる旧作の焼き直しにならず、きちんと「今の映画」に仕立てなおされていることに感心した。
僕がオリジナル版『十三人の刺客』を観たのは今から15年前だが、そのとき僕はこの映画を『七人の侍』(1954)の焼き直しだと思った。だがこれは半分当たりで、半分は間違いだ。『七人の侍』の侍たちは、目的のため集う一匹狼の素浪人たち。だが『十三人の刺客』の主人公たちは、敵も味方も含めてその多くが封建的な主従関係に組み込まれた存在なのだ。そこでは上役からの命令が絶対であり、与えられた任務の中で己の死力を尽くすことが求められる。組織の中の個人が、組織として力を合わせて何を成し遂げるか。これは高度経済成長の日本企業の中で、サラリーマンがやっていたことと同じだ。『十三人の刺客』は「プロジェクトX」の世界を、時代劇という枠組みの中で描いた猛烈サラリーマン映画にも思えるのだ。島田新左衛門と鬼頭半兵衛のライバル関係は、同じ大学で机を並べた親友同士がライバル企業に就職して、競合するプロジェクトのリーダーにそれぞれ抜擢されたようなものかもしれない。
だがリメイク版『十三人の刺客』に、そうした「組織」の縛りはあまり感じられない。島田新左衛門は老中に命じられて役目を引き受けたというより、天下万民のために明石藩主松平斉韶の悪逆非道に終止符を打つ役目を引き受けたように見える。これは他の浪人たちも同じだ。彼らは「お役目」ではなく、その任務の意味や、人間同士のつながりの中で戦いの中に身を投じる。鬼頭半兵衛を突き動かしているのは、何が何でも島田新左衛門に勝ちたいという意地だろう。
しかしこの映画で僕がもっとも注目したのは、稲垣吾郎演じた明石藩主のキャラクター造形だ。彼は暗愚で冷酷な殿様ではない。むしろこの映画に登場する誰よりも頭の切れる男なのだ。彼は二百数十年を経た江戸幕藩体制の中で、武士道や忠義心などがとうの昔に形骸化していることを見抜いている。だからこそ彼は、きれい事だらけの武士道や忠義心を挑発し、うわべだけ取り繕われた封建制度自体を破壊してしまいたい衝動に取り憑かれてしまった。「徳川の世の終わり」を悟っている彼は、自分の周囲で率先してそれを破壊して行く。主従の関係を破壊し、領主と領民の関係を破壊し、道徳や倫理を破壊し尽くそうとする。彼の洞察の鋭さは、20数年後の幕府崩壊が証明することになる。